「乳と蜜の流るゝ郷」「無理ゲー社会」

福島県に北塩原村という村がある。

「北山」「大塩」「桧原」という3つの地域からなり、それぞれから一文字づつ取ってできた村の名前だ。

私の本籍地は「北塩原村桧原」。

平成8年に妻と結婚し所帯を持ったとき、住んでいた土地を本籍地とした。

「乳と蜜の流るゝ郷」(賀川豊彦著)は、昭和9年から10年にかけ連載された小説で、私の本籍地のおとなり「大塩」を舞台に描かれたものだ。

「乳と蜜の流れる郷」という表現は、旧約聖書に何度も出てくるもので、エジプトに囚われていたユダヤ人に神が約束したカナン(今のイスラエル)の地を指している。

「乳」はヤギの乳を指し、「蜜」はハチミツのことである。

ヤギとハチを大事に育てれば、どんな飢饉や災いがあっても、永続的に生きられるというキリスト教の教えだ。

小説は、資本家による搾取と飢饉により疲弊する地方の山村の様子を描き、そこからの脱却を目指すストーリーだ。

作者の賀川豊彦は、クリスチャンの社会運動家。

昭和初期から、農村伝道に会津に入った。

実際に自分で目にした農村が抱える困難に対し、社会的正義を実現しようとした若者が誕生することを願い書かれたことは、想像に難くない。

話は、「産業組合」や「農事実行組合」など、助け合いを基本とした社会主義的思想が根底に流れている。

自由主義経済の令和になっても、この頃につくられた「農業協同組合」や「共済組合」、「生活協同組合」などの組織が現存しているから、自由主義経済と社会主義経済が併存しているといえるであろう。

東北地方では、「地割」という地名、あるいは、番地を時々目にする。

「地割」とは、災害に遭ったとき、失った土地のうち復旧できた土地を、それまで耕作していた者で全体の土地を均等割りし、耕作の再開をしたときに用いられた言葉だ。

資本主義的な思想であれば、災害前の土地所有の割合に応じて再配分するのだろうが、昭和初期は社会主義的思想で、土地を分割したようだ。

およそ90年前のこの小説は、およそ150年前に刊行されたマルクスの「資本論」により社会が作られてきた弊害を打破することが念頭にあったことも、また然りであろう。

小説には、悪徳な代議士や資本家が出てくる。

1976年には福島県知事「木村守江」が収賄により公選知事としてはじめての逮捕、有罪。

今年は、会津美里町長の逮捕、有罪があった。

明治時代から令和の時代まで、ずっとこの構造は変わらない。

「カネ=権力」の構造を打破することは、いつまでも実現しない。

山村が疲弊する構造を考えるとき、90年前の小説であっても、どんな心持ちが必要なのかを教えてくれる素晴らしい小説であった。


「無理ゲー社会」(橘玲著)は、現状を分析しながら未来を考察するノンフィクション。

「知能格差」「経済格差」「性愛格差」を論じたうえで、グレン・ワイルとエリック・ボズナーの共著「ラディカル・マーケット」で提唱されている「市場原理を徹底することで私的所有権を否定し、共同体(コミューン)を再生する」という思想のシュミレーションを行っている。

ワイルが提案する「共同所有自己申告税(COST: common ownership self-assessed tax)」を引用し、「すべてのコレクションに毎年税を課したらどうなるか?」を考える。

世の中は、シェア経済に移行しているから、「所有」から「レンタル」への動きは、この税で、より加速することになるだろう。

そして、「資本論」でいう「蓄積された資本」という富から、社会全体へと富の移行が進み、多くの再分配のための原資が生まれる。

実質的に、自由主義経済を崩さずにベーシックインカムに似た制度となる。

「他人の繁栄から恩恵を受ける世界では、社会的信頼が育まれ、共同体(コミューン)への愛着が生まれ、市民的関与が促される」

と導く。

「自由主義経済」の行きつく先は「共産主義」であるという、予想外の結末となる。

いやいや、結末ではなく、まだまだ通過点であるかもしれないが。。。

この本では、リベラリズム(自由主義)も多くのページを割き論じている。

リベラル化の本質は「自分らしく生きたい」ということ。

既得権を持つ政治家や資本家が大きな抵抗をしているものの、社会的マイノリティに対する「生きずらさ」を打開する方向に社会は動いているから、リベラリズムはここ数年で大きな進歩をしている。

ただ、デモクラシー(民主政)はアフガニスタンにみるように、否定が現実にはじまった。

AIという最新テクノロジーが、COSTの最適化などを進め、政治の関与が薄まれば、「カネ=権力」からどうしても悪徳代議士を生む民主政(民主主義)を、ひとびとが捨て去る時代が来るかもしれない。

税がかからない「人格」という資産が尊重され、カネの力が落ちる時代が本当に来るだろうか?

「自由主義」であり「共産主義」である。

なんとも不思議な時代が来ることが予見されるが、両者が共存して闘争をしなくなれば、「ケンカっぱやい」ひとびとを除き、「ユートピア」が来ることになるのかもしれない。

この2冊の本を読み、いまのところ、「おだやか」に「共同体を意識して」生きていくことが、「最も賢い生き方」なんだろう。

あからさまな権力闘争が現実に行われていても、こういう気持ちを持てれば、「あの人たち、みんないらなくなるのね」とも思える。

でも、「あの人たちも共同体の一員」と考えなくてもならないから、「どうやって付き合おうか」と悩みは尽きない。

やっぱり、ひとびとの営みは、どこまで行っても「通過点」なんだろうと思う。